寺内町の歴史

●寺内町の定義と一身田の町

寺内町(じないちょう)とは、吉川弘文館の『国史大辞典』には、「戦国時代、 真宗寺院を中心に濠・堀などで防禦された自治都市のこと」と定義している。執筆 しているのは松山宏氏であるが、この定義は厳密には適当とは言えない。なぜかと 言うと、摂津国尼崎の本興寺寺内町や、長遠寺寺内町のように、日蓮宗寺院を中心 とした寺内町もあって、真宗寺院を中心としているとは限っていないからである。 その点では大阪大学の脇田修氏の

寺内町は、戦国期において、浄土真宗などの寺院の境内地との名目で建設された 都市であった。これは動乱の時代にふさわしく、濠・土居などで防禦された囲郭 都市であり、寺院を中心に道路など整然たる都市計画をもつ都市であった(『講 座日本の都市』第1巻所収、脇田修「寺内町の歴史的特質」)

という説明の方が適切であろう。厳密に言うなれば、「寺内町」と「境内」とは 若干内容を異にしており、「寺内」とは「境内」に準じる地域と考えられていた らしい。一身田の場合「寺内」に対して、「地下」という地域があった。「地下」 とは、元来宮廷用語で、清涼殿の殿上に昇る資格のない人々をさす語、つまり殿 上人に対する「地下人」のことであったが、それがひいては一般庶民、あるいは そんな庶民の住む地域、という意味に用いられていた。従って、「寺内」に対し て「地下」は寺内特権を持たない地域、という意味になるのであるが、一身田の 場合、「地下」は「寺外(じげ)」とも音通であることから、寺内の外側という 意味も含んで用いられていたらしく、後に述べるように、単なる地域区分であっ たらしい。

kangou 次に、上の定義に述べられた「濠・土居などで防禦された囲郭都市」という規定 であるが、一身田の場合、その囲郭は今もほぼ完全に残っていて、典型的な寺内町 の形態を留めている。といっても、後に述べるように江戸時代の囲郭は、現在より もはるかに規模の大きなものであったから、決して「完全に残っている」とは言え ないのであるが、少なくとも環濠が町の周囲全体に繞(めぐ)っており、外部との 遮断が明確に残っている点では、全国の寺内町の中で囲郭の保存が最も良好な寺内 町、と言ってよいであろう。
ただこの囲郭の中には、先に述べた「地下」と呼ばれる地域が含まれているし、 一部に津藩の住民の居住する町もあることから、厳密には「寺内町」と言えないの ではないか、と言われたこともある。しかし、後に述べるように、この「地下」の 地域は、寺内町成立時においては寺内の区域外とされたのだけれども、後になって これも「寺内」と同じ囲郭の中へ取り込もうとした状況が看取されるので、これを 寺内町として取り扱うことは何ら不当でない、と思われる。また「二百石町」と呼 ばれる津藩住民の町も囲郭内に存在するが、これについては万治元年(1658) 12月の津藩からの寄進が行われた際の記録に、「一身田御寺内 津付百姓居屋敷 高帳」と題をつけて、庄屋肝煎連盟で専修寺へ届け出ており、それによると、その 畝数は4反8畝16歩2厘であって、分米4石7斗9升2合を専修寺へ納めること とまっていたようであるから、津藩の地を囲郭内に含んでいるからと言っても、囲 郭内全体を”寺内町”と呼ぶことは不当ではない。

●寺内町分類上の一身田の性格

これまでの寺内町に関する研究は、寺内町の成立過程によっていくつかの類型に 分類できることを示してくれているが、それらの研究の中で、最も適切として学界 の評価を得ているのは、脇田氏が「寺内町の構造と展開」(『史林』第41巻1号 昭和33年)に提言せられたもので、次の3類型である。
(1)寺院側の完全なイニシアティブによっておこなわれたもの-石山・山科など。
(2)有力土豪・大名の寄進・門徒化によるもの-今井・城端など。
(3)門徒集団による土地の買得並びに一定区域の占拠によるもの-貝塚・富田林など。
そこで一身田はこのうちのどれにあてはまるか、であるが、専修寺を一身田へ誘致する については、先に述べたように在地の有力農民が関与したとの伝承はあるが、それは伝 承の域をでない。しかも近世における専修寺の寺内民衆に対する権力は絶大なものがあ り、一身田の町は専修寺の完全なイニシアティブによって運営されていたことが歴然と している。その点では山科や石山における本願寺と匹敵するものがある。従って第1類 型であることは、言を俟たない。

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一身田の寺内町がいつ成立したか、これを審らかにする史料は残されて いない。一身田で「寺内」の語が最も早く現れるのは、一御田神社(もと 梵天宮)に所蔵される22枚の棟札(津市指定文化財)のうちの天正20 年(1592)の屋根葺替え棟札で、左のように書かれている。
ここに「寺内」の呼称が成立していることを知ると共に、それが先に 述べたように、「地下」と相対する呼称になっていることが注目される。 そして「肝煎」をしたという「神戸孫右衛門尉」というのは、このころから 専修寺の坊官(「室老」とも言い、専修寺の庶務財務をつかさどる在俗の 責任者)であった。
つまりこの棟札は専修寺が音頭をとって、寺内と言わず地下と言わず、 一身田の町全体から寄付を募り、当社の屋根葺替を行ったとのことを述べた ものであり、そこにもこの寺内町が寺院主導型であることを示している。 それによって先に述べた分類の中の第1類型に属することが確認されるで あろう。
ではそのような寺内がいつ成立したのであろうか。一般的に寺内町の成立 は、蓮如が行った山科寺内町のように、15世紀末というのは極めて例外で あって、ほとんどの寺内町が16世紀の半ばであった(水田義一「寺内町の 建設プラン」-『講座日本の封建都市』第1巻所収)。それを思うと、一身 田の場合も、真慧の無量寿寺院建設は先に述べたように15世紀後半に行わ れているが、そんな古い時期に寺内町建設が意図されたとは思われない。や はり16世紀に入ってからと考えるべきであろう。また寺内町を建設するに ついては、何らかのきっかけが必要であったと思われるが、そうすると、天 正8年(1580)の伽藍炎上による復興工事というのが、それに相当しそ うに考えられる。この工事は天正10年に始まって、天正16年9月に落慶 法要が行われている(『代々上人聞書』)ので、この棟札の4年前にあたる のであるが、このとき単に伽藍の再建だけでなく、この機会に町の再編成を 行ったのではあるまいか。そのころ畿内各地で盛んに真宗寺院を中心とした 寺内町が建設せられていたから、それが専修寺当局を刺激したとは考えられ ないであろうか。
この「寺内地下勧進」というのは、このあとこの梵天宮(一御田神社)に とっては、一種の決まり文句になったらしく、この棟札に引続いて幕末まで に十数枚の棟札が残されているが、それらの棟札の多くに「寺内地下勧進」 の語が用いられている。

●寺内と地下の地域区分

次に、寺内と地下とは地域的にどう区別されているか、ということが問題 となる。幸い地下については、元禄13年(1700)の古図によったとい う「一身田地方間数并地下家屋鋪間数其外諸間数」(平松令三所蔵)が残されているし 、寺内については、文政13年(1830)の「(宗旨人別)御請書、御寺内」(玉保 院所蔵)があるので、それを寛政4年(1792)の「一身田惣絵図」(専修寺所蔵) にあてはめて復元してみると、添付図面のようになる。

zu2-3 この図でまず注目されるのは、一身田の町が一身田村と窪田村の二個村に分かれている ことであろう。これが条里制による里の境界に基づくことについては、先に述べた通りで あるが、この窪田村に属する地域は、津藩主藤堂高次の娘が専修寺第16世住持堯円の夫 人として輿入れするに伴って、万治元年(1658)12月、津藩より専修寺へ寄進され た土地であって、その詳細は「寬文4年甲辰12月14日、専修寺殿附窪田・大古曽・一 身田三ケ村之高帳」(専修寺蔵)によって明らかである。その中には、「伊勢別街道」と も呼ばれる参宮道への取付道路敷や、津付百姓居屋敷が含まれているが、それを除外した 環濠内の土地は、「寺内」となっている。
それに対して「地下」は、一身田村の中だけにある。もちろん寄進以前の、専修寺在来 の土地である。即ち「地下」と称する地域は、天正の伽藍再建の際に作られただけで、万治 元年の寄進地には、同じような町屋が並ぶ地域ができたにも拘らず、それを「地下」と称 しようとしなかったのである。それだけでなく、寺内も地下も、もちろん境内を含めて、 周囲に環濠を作り、後にのべるように3箇所に橋と門とを作って、これが特殊な地域である ことを、現実の姿をもって内外に宣言しようとしているのである。一身田寺内町は、この ときに完成された、と言える。
そこで溯って万治元年寄進以前の一身田の寺内と地下がどのような形であったのか、 を考えねばならないが、寺内と地下との境界に巾6尺の溝があるのを見ると、この溝を 境界とし、寺内は東と北に濠を掘り、他との区切りとしていたことが考えられる。西側 の窪田村境には大きな濠があった形跡はないが、当時の専修寺伽藍は東向きであったことが 、寛文再建時の史料で明らかであるから、ここは伽藍の背後にあたり、しかも窪田村地は 田圃であったことが施入時の高帳で明らかであるから、とくに大きな濠を必要としなかった のではなかろうか。北側の濠は、北町の家並を挟んで、2筋の濠が今も東へ流れている。 これは万治の寺内町では、専修寺境内のすぐ北側までであったのが、寛文の再建 によって、専修寺の使用人が増加し、「北町」を新たに作ることになって、その 北側へもう1本の濠を作った、という風に考えられよう。
要するに天正年間に形成された寺内町は、専修寺境内の南側と東側に末寺と用 人屋敷を配置して、その周囲を狭い溝で囲郭し、その南側へ地下町を隣接させた ものではなかったか、と思われる。元禄13年(1700)古帳によって復元し たところでは、地下の町は東北端のところで4軒ほどが溝を越えて、北の寺内の 中へ入りこんでいる。どうしてこうなったのか審らかでないが、屋敷の売買など によるものかもしれない。
地下のなかで環濠の外へ残った橋向町は、早くから門前町として発達してきた ようで、万治元年(1658)に水茶屋25軒が公認されたという(森徳蔵氏旧 蔵文書)。

●寺内町の施設

町の囲郭については、元禄13年の古図にもとずく「一身田地方間数并地下家 屋鋪間数其外諸間数」(以下「元禄13年古図帳」と呼ぶ)に次のように記して いる。

一、東 長百九拾九間半、堀幅貳間半、
堀之外三尺之道、土居壱間
一、西 長貳百三十貳間半、堀幅(無記入)
土居三間、堀之外道幅壱間
一、北 長貳百四拾間、堀幅三間、
土居三間、堀之外道四尺
一、南 長貳百六十五間半、川幅三間、土居巾三間
三尺之水通し有、堤鋪三間

ここに記された堀の長さは、現存する環濠の距離と完全に一致する。ただ 堀幅について2.5間乃至3間と記しているが、現在は遥かに狭くなっている。 おそらく濠の外側が埋められてきているのであろう。また濠にそって内側に1 間乃至3間の土居(堤)があったようでああるが、寛聖4年の惣絵図には専修寺 境内の西側と北側で濠に面する部分にだけ描かれている。この部分の土居は だいたい現在もその形跡を留めているが、その他の箇所の土居は早くも屋敷地 の中へとり込まれてしまったのであろうか。

高田幼稚園運動場入口の門     宝暦木版絵図のうち黒門の部分

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町の入り口は、南と東の三箇所にあり、濠に橋が懸けられ、その内側に門が 建っていた。橋向町から寺内へ入る門は、宝暦木版絵図に「黒門」と書かれて おり、寛政4年の惣絵図には「門、貳間半ニ壱間半」と註記がある。この大きさ から考えると、高麗門形式の門だったのではなかろうか。現在高田幼稚園運動場 入口となっている薬医門形式の黒塗りの門が、それを移築したもの、と言われて いるが、証跡はないものの、薬医門にしては柱などが太く、しかも上部に改造の 形跡が見えるので、あるいはその「黒門」を移築したものかもしれない。この点 は建築専門家の意見を聞かねばなるまい。「元禄13年古図帳」に橋向町の道路 を記す箇所で、「橋向町、南北百五拾七間貳尺、但し惣門之南西より茶屋町迄、 道巾三間」と記しているように、これが一身田の「惣門」でもあった。そして門 の横に「番所」があったらしい。「向拝前西同行積銭改控牒」に、天保2年(1 831)「黒門番所破損修繕」の費用を分担した、との記事ががある。
東町の北端で、江戸方面からの入口となる門は宝暦木版絵図に「赤門」と記さ れていて、朱塗りであったらしい。「赤門」の名は今もその付近の俗称として、 その地域の人々に言い伝えられている。寛政4年惣絵図には「貳間半壱間」と註 記があるから、薬医門であったのではないだろうか。
西町の入口は、宝暦木版絵図に「桜道之門」と註記しているが、一般には「桜 門」と呼ばれていたようで、赤門と同じく「貳間半壱間」と註記しているから、 これも薬医門だったのであろう。
そのほかには、宝暦木版絵図では北之町の西端に、寛政4年惣絵図には更に1 箇所増えて北之町の中ほど、窪田村との村境のところに、それぞれ橋と門が描か れている。住民の交通用であろう。惣絵図の絵を見ると簡単な冠木(かぶき)門 のようである。
これらの門は、明け六つ(午前6時)に開門され、暮れ六つ(午後6時)に閉 門されたと言い伝えられている。また遊女などを門内に入れなかったことについ ては次の専修寺からの達書がある。

                      地下庄屋共へ
一文化三寅十二月申渡置候橋向町水茶屋杓取女共、黒門内え徘徊勿論、両御堂え 参詣の義、堅御禁制之旨、申付置候処、近来猥りに相成候哉にも相聞へ候、右心 得違無之様、水茶屋之者共へ念入可申付置候事
戊七月
(森徳蔵氏旧蔵文書)

 

そして反対に、一光三尊仏開帳などの大法要には、水茶屋の亭主は必ず抱え女を 引率して参詣し、庄屋はそれを記録しておいて、役所へ提出せよ、とも命じてい る。

釘貫門から山門を望む         宝暦木版絵図のうち矢来を描いた部分

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なお宝暦の木版絵図を見ると、山門前のほか3箇所に矢来(釘貫門)のような 図が描かれており、「五街道分限延絵図」(東京国立博物館蔵)の一身田の場面 でも、同じその場所に矢来らしき様子が描かれている。どうやら現在山門前だけ に残っている釘貫門と同じような矢来が設けられていたようである。
その位置を見ると、専修寺境内の一歩手前の場所である。「分限延絵図」では、 矢来のすぐ前に高札も立てられている。「ここからが聖域」という意味を示して いるようである。ということは、この矢来から内が、「境内」に準ずる地域、即 ち「寺内」というつもりなのではあるまいか。天正期に設定した「寺内」が、時 代と共に変化した結果、これが江戸時代に生れた「寺内」地域なのではあるまい か。しかしそこには、戦国期に形成された「寺内」の意味は、遥かに希薄になっ てしまっていることを、そこに見ることができよう。

●寺内の貢租

専修寺文書の中に、寺領とその貢租について、明治新政府へ提出した書類の 控がある。それによると、寺領は350石で、そのほかに「高入無之除地」が、 反別8町1反8畝28歩あり、それを次のように区別している。

反別2町6反7畝28歩 境内ニ付除之
反別2町8反8畝7歩  家地無年貢
反別2町6反2畝23歩 町屋竈年貢

つづいて津藩からの寄付地185石1斗5升8合については、反別10町4反8畝 23歩とし、

反別6町1反8畝2歩  境内
反別1町8反6畝28歩 家地無年貢
反別  4反6畝17歩 道敷地
反別1町9反7畝6歩  町屋竈年貢

このうち「町屋竈年貢(まちやかまどねんぐ)」については、明治21年の「一身田 村地誌取調草稿」の中に、一身田の町屋はすべて平等に「竈年貢」又は「役米」と いわれるものを本山へ納めるのみにて、貢租額は周縁農村などに比較して軽微であった との旨を記しているが、それである。
地下の庄屋をつとめていた森久太夫の「家屋敷田畑控帳」(文化8年森徳蔵氏旧蔵 文書)を見ると、森家が所有していた屋敷地のうち、現に居住している屋敷については、 「先代より役儀に付役米御免」、また拝領屋敷については「無年貢地」とあるけれども、 その他の買得屋敷などについては、面積の大小に拘らず1筆ごとに「役米2斗4升」と 記している。この役米については、「閏月には貳升増」との註記もある。これから見る と、町家については、特殊な屋敷を除いて、一率に役米(竈年貢)が課せられていたら しい。これは他の史料によって、「寺内」と呼ばれる地域の中にある町家にも課せられ ていたことが知られるので、「地下」とか「寺内」とかの区別には関係がなかったよう である。
次に「家地無年貢」であるが、坊官明日香家の史料によると、同家屋敷は「家地無年 貢」と記されており、先の拝領屋敷が無年貢であったことと併せ考えると、末寺、坊官、 用人、侍衆など専修寺に所属する家地が無年貢であった、と考えられる。
なお念のため、上記の境内地について、その面積と現在の測量値とを対照してみたと ころ、次の通りであった。

現在の境内地測量値     27,261.8坪(89,964.08㎡)
上記史料による境内地の合計  26,580坪(8町8反6畝)

この不符合が何によるのかは審かでない。江戸時代に境内の東北隅が池沼であったのが、 近代に埋立て境内地となったことが関係しているのかもしれない。

●寺内の生活

一身田寺内町にいわゆる「寺内特権」らしいものは見られない。町民の特権が あるとすれば、本山から祠堂銭を借り受けることができるくらいであろう。
町家が利用した祠堂銭は「御拝受銀(ごはいじゅぎん)」と呼ばれている。これは 借用証文に「御本山様え従公儀御拝受被遊候御銀子御貸附」と書かれているように、 幕府から本山専修寺へ下附された銀子を、町民に融資するものである。金利が僅かに 年1割2分と低利であったから、町民の事業資金として絶好であり、これによって江 戸時代一身田の町に繁栄をもたらした、と言える。
一身田町のもう一つの大きな特徴は、全住民を真宗高田派の門徒として組織化して いることである。現在町民は10戸乃至15戸ずつの隣組を組織しているが、この組 織は何も戦時下に隣組として組織されたものではなく、江戸時代からの組織であって、 「同行(どうぎょう)」と呼ばれる。同行は毎月9日と15日に集会し、仏壇に向っ て法要をつとめる。9日は高田派中興真慧上人の命日であり、15日は親鸞聖人の命日 である。もっとも近年はほとんどの同行で廃止されてしまったようであるが、つい20 年ほど以前までは、どこでも実施していたものである。
同行の大きな目的は、こうした真宗教義による報恩謝徳の念仏を唱えることと共に、 同行内に死没者が出たときは、全員が集まって葬式の一切の世話をすることであった。 遺族及び親族には一切手を触れさせないのが、同行のしきたりであった。そのほか毎年 1回親鸞聖人報恩講をつとめるときは、定められた献立による御馳走を一緒に食べるのも、 大きな行事であった。

 

 

 

 

 

 

 

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