一身田の歴史

●地理的景観

map一身田の町は、伊勢湾の西岸、伊勢平野のほぼ中央に位置する。 西方の布引山地から海に向ってのびる2つの丘陵が北と南にあって、 その間を流れる志登茂川(しともがわ)の沖積平野の真ん中である。
このあたりの志登茂川は、北側の丘陵に沿うように流れ、平野の中央 を貫流するのは毛無川(けなしがわ)という小さい川であって、一身田の 集落はその北側に形成されている。志登茂川は氾濫するとこの集落に水害 を及ぼし、昭和34、47、49年度には大きな被害を与えている。

 

●地名の由来

”一身田(いっしんでん)”という地名は、全国的に珍しい地名といわれるが 、一身田という名称は、律令制のもとで班田収授が行われるようになった とき、その身一代に限って与えられた田を意味する。そこでその制度を始めた 「三世一身の法」の名残りの地名であろう、という説がある。しかしこの法は、 開墾奨励のために養老7年(723)に発布せられたが、効果が上がらなかっ たので、わずか20年ほどで廃止された寿命の短い法令であり、しかもそれが 定着することなく廃止されているという事実から、それが地名化したとは思わ れない。
それよりも、その後の奈良・平安時代に長く行われた「別勅賜田(べっちょく しでん)」の中の 「一身田」と考えるべきであろう思われる。「別勅賜田」というのは、政治上 の功績があった者や高位高官の者などに特別の勅命をもって与えられた田で、 その身一代に限って与えられたのが「一身田」と呼ばれた。『三代実録』の元慶 2年(878)6月2日条に、三河国の田100町を孟子内親王に賜って、 「一身田となす」との記事が載っているのは、その実例である。わが一身田も、 そのように朝廷からある特定の人に一代を限って与えられ、その人が死ぬと次の 誰かにその一代を限って与えられた、というように、一身田として長く続いた ために、地名として定着したものと思われる。
そこでこの一身田がどのような人に与えられたか、という問題であるが、鎌倉 時代に伊勢神宮の荘園を書き上げた『神鳳鈔(じんぽうしょう)』という古記録 のなかに、この一身田のところで、「囗王殿一身田」という註記があり、これが 問題を解く緒口となってくれるようである。この「囗王殿」というのは、江戸時代に 御巫清直(みかんなぎきよなお)という人が書き写した『神鳳鈔』に記されている のであるが、御巫清直はこの一字が読み取れなかったらしく、その格好をいい加減 に写しただけで、字になっていない。そこで推測を加えてみるのであるが、この 一字は原本では「斎」であったのではなかろうか。それが虫損いなどがあって読めず、 文字の一部分だけ写しておいたのではないか、と思われる。未だ仮説の域を出ない のであるが、そう考えておきたい。

これが「斎」であったとすると、ここは「斎王殿一身田」ということになり、伊勢神宮 に奉仕する皇女「斎王」に対して、その身一代に限って与えられた別勅賜田ということになる。 斎王に与える田としては、ちょうど適当な場所でもある。江戸時代の地誌『勢陽五鈴遺響』 に、斎王がこの一身田に居住した、との伝承が載せられているが、もちろんその伝承は史実で はないにしても、この地が斎王と深い関係にあったため発生した伝承とも考えられる。荘園制 が進行して、賜田の制がすたれた鎌倉時代に、ここが神宮領荘園となり、「一身田御厨」と 呼ばれるようになって行ったのも、そんないきさつを考えれば当然のことであろう。ともあれ 一身田の地名には、そのような歴史があることを考えておいてもよいのではあるまいか。

●条里制遺構

jyori 伊勢平野には条里制の遺構を示す場所が多いが(弥永貞三・谷岡武雄編『 伊勢湾地域の古代条里制』昭和54年東京堂出版)、一身田はその中でも 特に顕著に遺構をとどめている地域である。明治8年の地籍図(津市役所一身田 支所蔵)を見ると、縦横1町ごとに碁盤目に仕切られ、北西隅から東方へ順次 「一ノ坪」「二ノ坪」「三ノ坪」「四ノ坪」「五ノ坪」「六ノ坪」「七ノ坪」 の小字名が順序正しく並んでいて、いわゆる「千鳥式坪並」を示している。 そして旧一身田村は、そのほぼ方6町四方、つまり1里であったことも知られる。 ただそれが何条何里に相当するかは、全く史料を欠いている。毛無川の南岸に「八条」 という小字があるが、これが条里制による地名かどうかは審らかでない。
この条里制地割は、旧奄芸郡条里に続くもので、その方位は南北線が北において東へ 30度振れており、その状況は現在も続いている。ただ小字名はその後に改変されて しまって今は残っていない。
この条里制の地割と一身田の町との関係は、添付図面の通りで、環濠にかこまれた 地域は、一身田村の13、14、23~26、35、36の8個坪、窪田村の17~20、 29~32の8個坪に相当することが知られる。そして後に述べるように、専修寺が 最初に進出した地域は、そのうちの一身田村に属する地域である。窪田村に属する地域 は、万治元年(1658)12月、津藩が専修寺に対して寄進して専修寺領となった地 域であって、地籍としては依然として窪田村のままであった。この条里制の境界に基づく 地籍区分はその後も長く変わることなく、近代にいたるまで続いた。

●集落の形成

itimitaこの地域の考古学上の遺物は、毛無川南岸の一身田小学校校庭(旧一宮神社境内) から、弥生中期の壷が出土しており、専修寺門前の向拝前町道路地下からも、ほぼ 同時期の弥生式土器片を出土していて、有史以前にここに人々が住み着いていたら しいことをうかがわせる。
しかし人々がここに集落を形成したのがいつ頃だったのかを知る手がかりはない。 ようやく15世紀に入って、一御田神社<写真>の棟札の一枚(津市文化財指定) に、「奉造立 嘉吉三年(1443)十月十九日 大夫成四人 信心村人等三十五人 」と記されていて、集落の存在と、住民による宮座の組成が知られる。
一御田神社は、元和5年(1619)の棟札によると、祭神は「大梵天王、神明、 溝淵」の3社であった。「大梵天王」はおそらく愛知県津島神社の信仰にもとづく ものであろうし、「神明」は言うまでもなく伊勢信仰であって、次にも述べるように 、当地が伊勢神宮荘園であったことによっていよう。「溝淵(みぞぶち)」とは 現安芸郡芸濃町雲林院の溝淵社(美濃夜(みのや)神社)の神である。津島信仰も 伊勢信仰もともに農耕生活にかかわる信仰であるが、ことに溝淵社にいたっては 灌漑用水をつかさどる農業神であるから、この三者を祭神とすることは、当社が 農耕生活の神であることを意味し、それは一身田が農耕集落として成立していた ことを示している。

●伊勢神宮との関係

鎌倉時代の伊勢神宮領の全貌を示すものに『神鳳鈔』があるが、その奄芸郡の項に 「一身田御厨三十六丁」と記されており、6町四方の一身田村全域が神宮領荘園であ ったかの如くである。しかし『神鳳鈔』の記述をそのまま鵜呑みにすることが危険で あることは言うまでもない。
その点では、応仁2年(1468)11月1日付の内宮庁宣(内閣文庫所蔵内宮引 付)の註記に「件一身田御厨之内三町ハ口入所渡シ、一町ハ神税ヲ可沙汰之旨、建武 ノ御成敗ニ見」とあるのは信頼できる。つまり少なくとも建武以前御厨となっていた のは3町であったのである。そして文明8年(1476)11月6日付の御師蔵田国 弘書状案(同上内宮引付所収)によると、一身田御厨からは内宮への上分米2石、蔵 田氏への寄進米7石が納入されていたことが知られる。いま明治8年の地籍図に、 「上分田」と呼ばれる約1町歩の小字が見えるが、これがその上分米などを負担する 田であったのであろうか。
室町時代の一身田村は、そうした伊勢神宮へ年貢を負担しつつ、室町幕府直轄の 「御料所」ともなっていたようで、「諸国御料所方御支証目録」(内閣文庫所蔵)に その名が見える。

 

●専修寺教団の伊勢進出の背景

以上のように、一身田村は全くの農業集落であったが、それが大きく変貌をとげる ことになるのは、ここに高田専修寺真慧による無量壽院(のち一身田専修寺)が建設 されたことによっている。
高田専修寺は下野国芳賀郡大内庄高田(現在の栃木県芳賀郡二宮町高田)に創立さ れた寺院であり、今も現地に伽藍を残していて”本寺”と呼ばれ、住持は一身田専修 寺の住持が兼務している。寺伝では、関東地方を教化中であった親鸞が52才の時この 地を訪れ、夢想によって信州善光寺から一光三尊仏を感得して、ここに伽藍を建立した という。その寺伝は信憑性は少ないけれども、現在その地に残されている一光三尊仏像 は親鸞在世中にまで溯り得るものであり、親鸞がその一光三尊仏をまつる堂を拠点にし て布教し、その結果生まれた門弟たちがその如来堂を核として「高田門徒」と呼ばれる 教団を形成したことは、まちがいないところであって、専修寺境内は「親鸞の宗教遺跡」 として国の史跡にも指定されている。
親鸞の滅後も高田教団には秀れた指導者が輩出して、関東諸教団の中で最も有力な教 団としての地位を築いていた。ことに高田門徒の指導者には、遊行聖(ゆぎょうひじり) 的性格が濃かったので、その教線は関東から東海、北陸地方に伸び、南北朝期には「高 田へ詣でる人々」(『三河念仏相承日記』)も数多く現れていたと見られる。しかし親 鸞の歿後、その廟堂を核として教団を形成しつつあった本願寺が、14世紀に入って次 第に勢力を拡大しており、高田派教団の分派とも言える仏光寺教団も京都を中心に強大 化しつつあった。それに対して高田派教団はむしろ沈滞化の傾向にあった。

 

●真慧の無量壽院建設

そんな形勢のなかで専修寺第10世住持となった真慧は、東海北陸方面に積極的な 布教活動を繰りひろげた。彼が伊勢国へ入ったのは寛正元年(1460)と言われ、 寺伝によれば寛正5年に一身田に寺院を建設して、ここに高田専修寺を移したという。 しかしこれは、一身田専修寺が関東の高田専修寺の後継であることを世間に訴えるた めに、江戸時代に創作された伝説であって、歴史的事実とは認められない(平松令三 「一身田専修寺の成立について」-昭和44年藤島博士還暦記念論集『日本浄土史の 研究』所収)。
ただ一身田の寺が、真慧によって建設されたことは、明応9年(1500)の「川 北道場建立旨趣」(津市久善寺蔵、津市文化財指定)に、

高田専修寺聖人真慧、為止住百 歳輝法炬 一念往生之直路故、遙自関東、当国ニ来臨シ玉ヘリ、而一身田ニ御堂ヲ安置シ玉テ・・・・

と記されていて、まちがいない。その時期は寺伝よりやや遅れて、文明(1469~ 87)の初年であったと思われ、寺名も専修寺ではなく「無量寿院」であったことは 、諸種の史料がが示すところである。
寺地の取得と寺院建立の目的については、天文15年(1546)の厚源寺玄祐申 状(『真宗史料集成第4巻所収)』)に

一身田之御寺、為両上人様(筆者註、真慧と応真か)、六十年以前に被置立候、比屋 敷共は、下津名字者共、地下の中平野の四郎兵衛なとも寄進仕候て、于今御相続被成 候、誓祐、浄祐、浄幸、筑前八郎兵衛と申者共、京都長野をかね申候御寺立参らせ候、

と記していて、寺地は当地の有力農民の寄進であること、およびこの寺が京都の朝廷 や幕府との連絡と、その頃伊勢国北半分に大きな勢力を持っていた長野氏との接触の 拠点として、この地域の真慧の弟子たちが中心となって建立したことを述べている。
そのころまで伊勢国内に存在した高田派寺院は、数個寺を数えるにすぎず、真慧の 布教によって生れた信者は、旧来の寺院の手を経ない人々であった。それは一つには 真慧の教化の対象が既成寺院とは縁の薄い一般民衆であったことにもよっている。そ のような手次寺院を持たない信者は「直参(じきさん)」と呼ばれ、その中の指導的 な人物が中心となって、直参衆道場が各地に形成されていた。そんな道場を統括する 寺院が必要だったのである。
一身田の地は、京都から伊勢への幹線道路に沿っており、しかも東国から伊勢神宮 への街道も通っている、という交通上の利便さが彼にこの地を選ばせたものと思われ る。
真慧はそのような手法で教化を拡げると共に、朝廷や幕府へ接近することによって、 世俗的権威の取得にも努めた。それは関東の片田舎の寺院である専修寺に最も欠けて いた点を補強しよう、とするものであった。文明10年(1478)には寺を皇室の 御祈願所にする、との後土御門天皇綸旨(専修寺文書第29号)を得ることに成功し 、同時に自分自身にも「上人」号を取得している。そして晩年には、当時の日本仏教 最大の権威であった比叡山との接触を維持するため、坂本に妙林院を建設し、ここを 自分の住坊としている。

 

●教団の内紛と一身田専修寺の成立

その真慧が永正9年(1512)没すると、真慧の晩年に京都常磐井宮 家から迎えた養子の真智と、真慧の実子応真との間に、跡目をめぐる対立 が発生し、教団を二分する抗争は半世紀にも及んだ。その間に本寺である 下野国高田の専修寺が兵火によって炎上するということがあり、(越前法 雲寺文書第13号大永6年9月3日付延暦寺東塔院東谷彼岸所衆議状-『 真宗史料集成』第4巻所収)真智がこの一身田無量寿院に居住し、応真は 近江国坂本の妙林院を本拠とした。
真智は荒廃した高田専修寺に代えて、一身田無量寿院を教団の中心とす べく、室町幕府にに働きかけて、天文8年(1539)と天文12年の両 度にわたって、住持職安堵の室町幕府奉行人連署奉書を申し受けることに 成功した。そこで応真没後、飛鳥井家から入寺して専修寺12世となった 堯慧は、坂本を発して伊勢国へ入り、安濃郡の豪族乙部氏の娘を内室に迎える などして、この地方の在地勢力の支持をとりつけている。その結果、真智は一 身田より退去せざるをえないことになり、天文17年2月には代わって堯慧が 一身田無量寿院へ入り、それ以来ここが高田専修寺住持の住坊として定着した のであった。そして自然とここが高田教団の中心となり、無量寿院は一般には ”専修寺”と呼ばれるようになったようで、弘治3年(1557)と翌永禄元 年(1558)の2度ここを訪れた山科言継は、その日記に「一身田専修寺」 と記している。しかし正式にはやはり「無量寿寺」であったらしく、天正元年 (1573)の織田信長禁制も、天正12年(1584)の徳川家康禁制も、 ともに宛先を「一身田無量寿寺」と記している。

 

●近世の専修寺と一身田

伊勢国の太閤検地は文禄3年(1594)に実施された。一身田村のその検地帳 は残っていないけれども、諸種の史料から推すと、太閤検地による一身田村の石高 は559石余であったらしい(神宮文庫所蔵「伊勢国中御検地高帳」には、562 石2斗と記されているが、どうしてか誤っているようである)。そしてそのうちの 350石が文禄5年6月に、豊臣秀吉朱印状によって専修寺に施入せられた(専修 寺文書第225号)。これが江戸時代を通じての専修寺領であった。その地域は、 北ノ町の北側を志登茂川までと東町の東側、つまり後に述べる一身田寺内の周縁部 である。
残る209石余は、九鬼嘉隆が知行していたらしいが、慶長5年の関ヶ原合戦に 西軍に属したことから没収され、その後、大坂の陣の戦功によって藤堂高虎が加増 を受けた安芸郡18582石の内として、津藩へ組み入れられた。『宗国史』の封 彊志によると、津領の一身田村は209石4斗9升となっている。
ここで注目されるのは、寺領の田畠の面積が「束把刈(そくはがり)」と呼ばれ る単位で表示されていることである。文化8年(1811)の「森家屋敷田畑控帳 」(森徳蔵氏旧蔵、現在所在不明)には、表紙裏に「1町3千坪3百苅、1反3百 坪30苅、1畝30坪3束苅、10坪1束苅12わ(把)成」と換算率が記されて いて、世間一般が町段歩制である中で、束把刈制を維持していこうとする姿勢を見 せている。
言うまでもなく束把刈制は中世の遺制であるから、専修寺が寺領においてその遺 制を持ち続けているところに、この寺領の支配が文禄5年から新しく始まったもの でなく、文禄5年の朱印状は、中世からの支配を追認したものであろうことを思わ せる。
真慧が建立した専修寺の堂宇は、天正8年(1580)4月5日に炎上し、再建 の堂は同16年9月に落成した(『代々上人聞書』)。その伽藍は祖師堂18間、 阿弥陀堂16間であったという(明日香家文書)。

しかしまたその伽藍が、正保2年(1645)正月23日の夜、一身田村の大火 によって炎上した。現在の伽藍は、その後の再建にかかるものである。再建にあた って、時の住持第15世堯朝は、父堯秀の退隠に際しての大僧正昇進が幕府の忌諱 に触れ、度々江戸へ呼び出されて叱責されたことにまつわる心労もあってか、翌年 32歳の若さで没する。専修寺は全く暗黒の時代を迎えたのであるが、ここで第1 4世堯秀が再住すると共に、堯朝の夫人であった高松院(藤堂高虎の長女)が、自 分の実兄である津藩主藤堂高次に働きかけて、津藩の絶大な援助をとりつけること に成功する。津藩としては、過去に津城が敵方の包囲を受けたとき(慶長5年、津 城主富田信濃守信高)、専修寺門主が仲裁の労をとり、城主は専修寺に入って一命 をとりとめた、という事実の記憶がまだ生々しかった、ということもあったらしく、 専修寺の復興には絶大な協力を行った。
まず藩主高次の4女糸姫を第16世高田派門主の内室に婚嫁させると共に、専修 寺の西に隣接する185石余の土地を専修寺に寄進した。これによって専修寺の境 内地と一身田の町並みは西に大きく拡大することになり、再建の伽藍は従来の東向 きから一転して南向きに建設されることになった。これにはそれまで伽藍のすぐ東 側を通っていた参宮道が、津江戸橋の架橋によって東の海岸近くへ離れて行き、西 方に離れていた京都からの参宮道が、伽藍のすぐ南側を通るようになった、という 道路事情の変化も大きく影響している(平松令三「真宗高田派本山専修寺の建築に ついて」-『建築史研究』28号昭和35年、のち『真宗史論攷』所収)。
こうして寛文6年(1666)現在の巨大な御影堂が新寄進地に再建され、つい で宝永元年(1704)にはその前に二重二階門という高い格式をもった山門が建 造された。しかし享保6年(1721)に如来堂の建築が始まるころともなると、 津藩も財政状態の悪化は著しく、御影堂のような援助は望むべくもなくなった。し かも、設計された如来堂は複雑な装飾の多い禅宗様(唐様)建築であったため、多 くの困難を伴ったが、高田派門徒こぞっての募財によって資金を作り、27年の工 期を経て、寛延元年(1748)にようやく完成している。

 

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