はじめに

 

このページは津市教育委員会によって平成元年3月に発行された 「一身田寺内町-町並み調査報告書-」をもとに一身田商工振興 会の依頼により作成したものです。

1997.04.10

blog空撮

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


一身田寺内町は、嘉吉3年(1443)一御田神社(梵天宮)の棟札に、35戸の民戸が見えており 、この人々が真宗高田派第10世真慧を下野国高田から迎えて、1470年ころ無量壽院(のち無量壽 寺)を建てたことから始まる。戦国時代に入って、 下野高田の専修寺が炎上荒廃したことから、ここが高田派教団の中心となり、寺名も「専修寺」を称するようになった。そして16世紀末には専修寺を中心に末寺や民家を囲い込んで、周囲に外濠をめぐらし、寺内町の形態を作り上げたと見られる。
 正保2年(1645)一身田は二度の大火に見舞われ、寺院、民家とも全焼した。その修復と拡大のため津藩2代藩主高次は専修寺の西隣接地に約3万坪を寄進し、寺地及 び寺内を5万4千坪(約18ha)に拡大し現在に見る寺院と町の整備の基礎ができた。一方、橋向は万治年間(1650年ごろ)に毛無川右岸に寺内町と伊勢 別街道とを結ぶ門前町として発達し茶屋でにぎわった。大古曽森は天保期末(1840 年ごろ)に橋向に連なる伊勢別街道沿いに水茶屋が出現し街村として発達した。
 明治以後は、明治24年(1891)関西鉄道一身田駅営業開始から寺内の西に桜町が生まれ、明治44年(1911)伊勢鉄道の設立と親鸞650回忌を記念して寺内東 に栄町の建設が始まり、次第に町は拡大されていった。
 このように一身田の町には高田本山専修寺を中心に伝統的建造物群や周囲に堀の残る寺内町をはじめ橋向の門前町、大古曽森の街村の伝統的建造物が残されている。

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